方言が抜けない場合
その土地にはその土地の「特色」があるものです。それはその土地が育んだ「文化」とも「風土」とも言うことができるものです。それはその土地独特の、「生きている人が育んできたもの」とでもいうことができるでしょう。
人が生きているからそこに「文化」が根ざすのです。人が生活しているから、その土地の風土が生まれるのです。それは誰も否定することができないもので、人が生きていて自然に成立したものであるということです。それは土地によって違います。それは気候が育んだもの、その土地の地形が育んだものです。山が多い、森が多い、川が生活の中心になっているなど、さまざまなことが起因して「その土地」が成立しているのです。
その風土の中に「言葉」があります。その土地ならではの「言葉」、「言い回し」、同じ日本語であっても土地が違うとここまで差が出るのかというほど違う、それも土地による違いのひとつです。その土地で生まれ育てば、その土地の言葉で思考するものです。それが自分の思考回路を形成するすべて、すべての言葉をその言い回しで再現するものです。それは否定できるものではありませんが、土地を変えるとそのイントネーションが通用しないこともあるということです。
上京すれば、「標準語」を使わなければいけないと感じている人もいるでしょう。その土地に馴染むためには、都会の一員として暮らすためには、都会の言葉で話す必要があると感じている人もいると思います。ですが、長く使ってきた言葉が自分の言葉として定着してしまっているため、新しく標準語で話すなどということは難しいものです。そこで悩んでしまう人も多いのです。
ですが、自分が話している言葉、ずっと使ってきたその言葉も、自分のアイデンティティであると考えるわけにはいかないでしょうか。自分という存在を成立させているひとつの要素、自分が自分でいるためのひとつの理由として、その「言葉」があるのだという考え方をするわけにはいかないでしょうか。
少し立ち止まって街の人が話している言葉を聞いてみましょう。実にさまざまなイントネーションが混ざっているものです。自分だけではないのです。地方から出てきたのは。さまざまな人がさまざまな土地から進出してきている街、それが「東京」です。都会ならではの光景です。日本人だけではありません。外国から訪れている人、そのまま住み着いて働いている人もたくさんいます。それぞれがそれぞれのアイデンティティを持って、生きています。
方言が恥ずかしいということはないのです。その方言も自分の特徴のひとつであり、なんら変える必要はないことなのです。そう考えれば、なにも標準語を覚える必要もないということです。そのままの自分で、都会で暮らせばいいのではないでしょうか。そのままの自分で、生きていけばいいのではないでしょうか。ありのままの自分で、新しい土地で新しい人間関係を築けばいいのです。