人間関係が稀薄な都会

都会にはさまざまな人がいます。さまざまな人が集まって、さまざまな人間関係を築いています。大都市圏に暮らすことで、物理的に触れ合う人の数は増えるものです。

ただ、そのようにして触れ合う人の数が多くなったからといってすべての人と交友関係を結べるわけではありません。すべての人と友達のように仲良く関われるわけではありません。人は自分が関係する人、自分が関わる人を自然に選択して生きています。ソリが合う、ウマが合う、そんな人と出会いながら、互いに高め合いながら、癒しながら、生きているものです。

都会で出会うすべての人とそのような関係を持つことができれば、たちまち友人が何千人とできることでしょう。ですが、誰もそんなに多くの友達を持たないのです。それは前述のように交流を選んでいるからで、それは「関わる」ということ自体にエネルギーが必要なことだからです。人と関わる、人と関係するということ自体にエネルギーが必要で、そのエネルギーがすべて報われるわけでもないのが人間関係です。こちらが好意を持ったとしても、相手はそうではないかもしれないということ、こちらが好意を持って接したとしても、相手にはそれが伝わらないかもしれないということなのです。

そして、人が多く集まればそれだけ「害意のある人」が存在する可能性が高くなります。すべての人がそうではないですし、人が多く存在しても一人もそのような人はいないかもしれません。ですが、「いるかもしれない」ということは「備える」もので、そのような害意のある人から被害を受けないためには、「簡単に心を開かない」ということが最大の防衛策になるのです。自分の氏素性を簡単に人に明かさないということであったり、財産に関することを軽々しく口にしないということであったり、とにかく「知らない人には気をつける」という防衛本能が一番働くのは都市部です。

ですから人が多くても、誰もが周囲の人に対して防衛本能を働かせています。そのため一見すると人間関係が稀薄で、人混みの中でも孤独を感じてしまう局面があります。人が多ければ多いほど、その中での「ひとり」である自分を感じてしまうことがあるのです。これだけたくさんの人がいるからこそ、その中で「ひとりであるという寂しさ」、コミュニティはたくさん存在するし、自分も友人がいないわけではないのに、ふと都会で孤独を感じることがあるのです。それが「都会」の魔力です。

困った時には誰も助けてくれないのではないか、だから自分も困っている人を助ける必要などないと、考えてしまうのではないでしょうか。その連鎖が、人と人の関係を稀薄にするのです。負の連鎖です。防衛本能が引き起こす、人に対しての「無関心」が連続するのです。人混みはただの景色で、自分には関係のないもの、誰がどうなっても関係ない、自分も助けられたくない、そのようなドライな感覚が、不思議と引き起こされてしまうのが都会なのです。