「都会人」などは存在しない

「ティーンエイジャー」の頃は、「田舎」にいること自体が「コンプレックス」と感じることもあるかもしれません。インターネットがいくら発達しても、物質的に自分の住んでいる場所が田舎であるということに対してコンプレックスを抱くこともあるかもしれません。

インターネットの発達と同時に、現代では物流も発達しています。基本的にどこに住んでいても同じものが手に入る時代です。どこに住んでいて、何をしていても、同じ情報、同じモノが手に入る時代です。ただ土地による風土の違い、住んでいる人の数の違いというものは依然ありますから、どうしても「地方」と「都会」という差はあるものなのです。

それはそのまま「多様性」という言葉に置き換えることができるもので、同じ国内でも「旅行をしてみよう」という気持ちになったり、自分の暮らしていない、訪れたことがない土地に対しての興味や関心が尽きなかったり、さまざまな場所があるからこの「国」は素晴らしいと思えることが多々あるのです。すべての場所が同じ景観であったら、どれだけつまらなくなってしまうものか、どれだけ世の中が退屈になってしまうか、想像するだけで恐ろしいものです。

そして生きているうちに私たちは住処を転々とすることが多いです。もちろん、ずっと同じ場所で同じ生活を送ることができる人もいます。その土地を愛し、その土地に骨を埋める気持ちで暮らしている人もいることでしょう。

「田舎は嫌だ」という気持ちは、ティーンエイジャーならではのものかもしれません。その土地で暮らしていることがどうしても嫌で、どうしても都会で、情報の最先端で、流行の最先端で暮らしたいという気持ちを抱く人もいるのです。そのため、進学する学校を都会に定め、都会に出るために勉強を重ねて、受験に挑み、本懐を遂げて上京、という人もたくさんいるのです。そのような人の気持ちを否定することはできませんが、ただひとつ確実なことは、東京には同じようにして上京した人がたくさんいるものです。

都会に生まれ育った人もいますが、その人が地方で育った人と何か違いがあるかというと、そういうわけではありません。都会ならではのマナー、人混みでの処し方、交通網に対する知見は深いかもしれません。ただ、そんなものは暮らしていけばわかることです。

ティーンエイジャーの頃に妄想した「都会人」などという人種は、この世の中には存在しないということです。都会に住めば、いつかはそこでの暮らしに馴れるものです。もしも「都会人」というような人が存在するとすれば、それは「都会での生活に馴れた人」ということです。そのような人になるためには、「そこで暮らせばいい」というだけです。特別な条件などはありません。そして、「都会人が最先端」であるわけでもありません。さまざまな人がいるのが都会なのです。別に、都会に暮らせば「おしゃれ」であるわけでもありません。そのような妄信は、暮らせばすぐにわかることなのです。